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第51回

第51回

 ようやく朝夕は少し涼しい日も出てきましたが、いかがお過ごしでしょうか? 相変わらず新型コロナウイルスの感染は広がっていますが、感染症について思うところを書いてみることにしました。とは言っても、基本的には「受け売り」ばかりですが・・・。

 1980年というのは私が大学生になり、加えて東京に出てきた年でもあり、大変印象深いのですが、調べると、WHOが「天然痘の根絶」を宣言したのもこの年でした。80年代というのは「いよいよ科学技術が『神の領域』に迫るまで進歩し、分からないこと、できないことがどんどん無くなっていく」というような根拠の無い高揚感に包まれていたような印象があります。加えて、日本経済(というか、日本製品とか日本発の技術)が競争力を増し、“Japan as Number One” という、これまた今となっては「?」な(エズラ・ヴォーゲルの著書の内容はかなり冷静かつ公平ですが)自信を皆が抱いていた時代でもあったような気がします。あの頃浮かれ過ぎたんでしょうね。

 ところがAIDSHIV)、鳥インフルエンザ、エボラ出血熱、といった新たな感染症がどんどん出現するに至り、「これはおかしいぞ、結局、人類と感染症は『イタチごっこ』ではないのか?」と誰もが感じるようになったのだと思います。ま、グローバル化する以前の世界なら「君子危うきに近寄らず」で済んでいたのですが、21世紀になるとそんなことも言っていられなくなり・・・。

 ところで私は長崎市の出身ですが、江戸時代、出島(現在は、あの「扇形」の島は存在せず、わずかに川岸の一部として存在するだけで、おそらく観光地としては『日本3大ガッカリ』当確間違いなしと思うのですが)が当時唯一の欧州との交易の窓であった訳で、当時も深刻な被害をもたらしていた天然痘への治療法として、ジェンナーが開発した牛痘接種によるワクチン接種が行われたのも、バタビア(当時オランダ領の現・ジャカルタ)から出島を通じて牛痘ワクチンが輸入されたからだと言います。

  最初にワクチンを輸入したのは有名なシーボルトで、この時にはオランダから輸入されたワクチンが効力を失っていたらしいのですが、この接種法が、佐賀藩の医師・伊東玄朴に伝えられ、佐賀藩主の鍋島直正公が医師・楢林宗建に命じて出島のオランダ商館の医師モーニッケを通じてワクチンを入手し、まず宗建の子供たちに、続いて直正公の子・淳一郎に接種して実証実験(ま、治験ですね)が行われたという。更には、伊東玄朴は漢方医の勢力の強かった江戸でお玉が池に種痘所を開設し、これが現在の東京大学医学部の前身となったということです。いやあ、昔の人は偉いなあ。

  どうでもいい余談ですが、江戸時代から明治維新にかけて、綺羅星のごとき各界の先達・偉人が長崎で蘭学を学んでいます。楢林宗建や伊東玄朴のみならず、古くは平賀源内から、幕末では大村益次郎、勝海舟、坂本龍馬、・・・。彼らは皆、「長崎人」ではないところが面白い。長崎人は hospitalityに富み、彼らの勉学・活躍をサポートした訳ですが、長崎は徳川幕府の天領で年貢も免除されていたので、生粋の長崎人は年に一度の「長崎くんち」におカネと労力を費やし、近代国家日本の建設そのものをリードする大物は出現しなかった、ということでしょうかねえ。スミマセン。あはは、どっかから反論が来るかな?