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第100回

第100回

 86日は広島の、9日は長崎の原爆記念日です。私は長崎生まれの長崎育ちですから15日の終戦記念日と並んで、8月の灼熱の陽光の下で(といっても大抵は家屋の中でですが)、黙祷をするのが(たまに仕事していると忘れますが)小学生時代からの習慣です。

 今年89歳の母は爆心地から数㎞の距離で被爆しましたが、山で隠れた場所だったので爆風で倒れた小屋に挟まれて怪我はしましたが助かりました。母より2歳年上の伯母は、ちょうど学徒動員で兵器工場で働いていたところを奇跡的に助かりました。伯母の同級生は兵器工場で大勢亡くなっています。二人はバラバラに、長崎半島の南端の祖母の実家を訪ねて裸足で逃げたと聞きます。

 それからの大変さは経験した者でなければ分からないだろうと思いますが、15日の玉音放送は、大人たちは地面に突っ伏して泣いたり、「本土決戦だ」と息巻いたり、という中で、母は「もう今日からは防空壕に入らなくてもよい」ととても嬉しい気分になったと言っていました。若干の誇張もあるのだと思いますが、あの文語調の昭和天皇のお言葉を聞いて子供時代の母がそう理解した、というのも何だか不思議な気もします。

 広島市でもそうでしょうが、長崎市でも平和教育は主にこの被爆体験を語り継ぐという形で行われてきましたが、この20年ほどは被爆者の高齢化で大変な筈です。市内に「原爆資料館」というものがあり、当時の遺品が展示されています。112分で止まった柱時計、高温で溶けたサイダー瓶、工場で働いていた人の弁当箱と黒焦げになったご飯・・・。原爆ドームの残る広島と異なり、長崎の平和公園にあるのは平和記念像という巨大な人の像だけ(修学旅行生がそのポーズをまねて記念撮影をするのがお約束)なので、寧ろこうした生活に密着した遺品が、その悲惨さを物語ります。

 一つだけ納得できなかったのが、「二度と過ちは犯しません」という平和の祈りの標語。子供心に「それ、違うだろう。俺たちのセリフじゃなくて、原爆落とした側のセリフだろ」と思っていましたが、そういう突っ込みをする大人は誰もいません。が、数年前に読んだ『チェ・ゲバラ』(伊高浩昭著・中公新書)には、チェが広島を訪問した際に、彼は新聞記者に対して「なぜ日本は米国に対して原爆投下の責任を問わないのか」と質問したのだとか。私とチェ・ゲバラでは立場も政治信条も当然全く異なりますが、やはりそういう感情を抱く人間が居るのが寧ろ普通なのではないかと今でも思っています。

 母が昔よく言っていた話ですが、「原爆投下直後、“70年間は草木も生えないと言われていたのに、昭和20年の秋には長崎大学の先生が植物のタネを蒔いて、植物が発芽することを確認したというのを聞いて、学問は大事だと感じた」とか。また、戦後進駐してきた米軍兵士が力仕事をするときに “Remember Pearl Harbor!” と掛け声をかけるのを周りの大人たちが真似て「ハーバー! ハーバー!」と得意気(?)に喚き散らしていたのでコッソリ注意したら「そげんことばおなごから言われんちゃよか!」と怒鳴られたとか・・・。いずれにせよ、(色々あるにせよ)内閣総理大臣が出席される貴重な機会の意味は時々しっかり考えてみたいと思います。